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こんにちは。
「補完」という熟語を知っていますか。
「補完」は「足りないところを補って完全にすること」を意味しています。
この熟語の前に「相互」という言葉を加えて、「相互補完」という四字熟語もあります。
それは「二つの事柄があり、それぞれが互いに、もう片方の不足している部分を補い合うこと」を意味しています。
余談になりますが、私が大学生のとき、中国の作家・魯迅との出会いについての話です。
中国語を選択して学んでいた私は、中国との関わりができたのだから、有名な魯迅の作品を読んでみようと思い、「狂人日記」、「阿Q正伝」を読むことにしました。魯迅の作品は短編ですので、読む時間はかからなかったのですが、恥ずかしながら、「この作品、何が楽しいの?」と全く理解ができませんでした。日本語訳で、平易な言葉でありましたが、言葉の難易以前に、内容を理解するこができない、理解というより、この作品は何が言いたいのかよく分からなかったのです。
そこで、私は中国語の先生(中国人)に魯迅の2つの作品について尋ねてみました。
「『狂人日記』はどこがいいんですか?」
「この作品はね、当時の中国人の有様をまざまざと表現しているのよ。『こんな人間だから、中国人はダメなんだ』と魯迅は中国人の国民性を痛烈に批判しているのよ。例えばね…」というように一つ一つの表現がどのような背景に基づいて表現されているかを教えてくれました。そこで私が痛烈に感じたのは、「文章は知識がないと読めないんだ!」ということです。ただ字面を追っているだけでは、内容の理解はできないのです。その文章の周辺にある事実や知識を知っていなければ読めるものも読めないのです。
もっと簡単に言えば、量子力学の本を物理学の知識もなくいきなり読んでも、読み解くなんてそもそもできないのと同じことで、文章で足りない部分は知識で補い、知識として足りないところは文章で補うというように、文章の読解は、文章と知識の相互補完で成しえることなのです。
もっともっと簡単に言いましょう。中学入試で温暖化や砂漠化などの地球環境問題についての説明文が出題されたとすれば、学校の総合学習や社会の学習で地球環境問題についてある程度の知識があれば、その文章の内容をとらえることができるでしょう。ところが、哲学的な内容、例えば、アイデンティティや死生観といった抽象的な内容が出題されると、そのことについて何も知らない、興味がなければ、読解することができない、あるいは「意味わからない」、「難しい」とただぼやくだけになってしまいます。知っているか、知らないかで設問への取り組みも変わってくるでしょう。知識がある受験生であれば、「要するにこういうことを言っているのね」と文章にすんなり入り込むこともでき、設問に対して興味を持つこともできます。一方、知識がない、興味すらないということであれば、読んでも全く分からないで終わるだけです。
文章を読み解くための方法論、技法、テクニックはいろいろあるのですが、実はそれをそなえていても字面だけで追う行為で終わるだけです。難易度の高い受験校になればなるほど、それらだけでは通用するはずはありません。なぜなら、文章読解を通して、その受験生の知的な関心、興味、すでに所有している知識を試しているからです。内容がわからなくてもいいよ、などという姿勢で出題はしてません。学校側は本気で受験生を選ぼうとしているのですから。
文章読解において文章と知識が相互補完の関係を結んでいるのであれば、単に文章についてだけを学ぼうとせず、いろいろなテーマについての知識を得る興味や関心を育てていくことが大切になるのではないでしょうか。