2022/05/14
よくよく考えてみると、各教科には学ぶべき分野がいくつもあります。
英語であれば、リーディング、文法、会話、英作文など
理科であれば、物理、化学、地学、生物など
社会であれば、歴史、地理、公民など
数学であれば、代数、幾何、統計、確率など
家庭科であれば、衣服、食物、住居、家族など
もちろん、これらはさらに細分化されますね。
国語ももちろん現代文、古典、表現など、それらもさらに細分化できますね。
先日、小学生の国語専科個別ベーシックの授業をしていて、ふと感じたのが、
国語って教えること、学ぶことが多いなということです。
「国語って読んで答えられればいいんでしょ」
「何か方法を学べば国語ってできるんでしょ」
というような本質とはまったく外れるような国語の学習は、実は何も得ることがないように思います。
語彙を学びそして獲得し、様々な文章を読み、そこから自分の持つ知識と融合させながら自分の言葉で内容を吟味する。また、自分の内面を自分が所有する語彙を選びながら、相手に伝わるように表現する。国語ができるというのは単なる点取りゲームではなく、もっと高見に立った視点で語られなければならないでしょう。
話は簡単です。
「国語って読んで答えられればいいんでしょ」
「何か方法を学べば国語ってできるんでしょ」
という単純思考では、仮に国語という教科での点取りゲームで勝利したとしても、
幅広い学びへの転化はできません。
「国語ができれば、他の教科もできるようになる」
という一言は、「国語ができる」=「問題を読んでその意味が分かる」=「点取りゲームで点数が取れる」
各教科の奥深さを単純化しただけの筋道であり、それぞれの教科はそれぞれの教科の中で十分な知識を得る必要があります。
「それぞれの教科は相互補完的なつながりがある」
この考え方がもっとも妥当でしょう。
国語も数学(算数)も社会も理科も、そして英語も
互いに補い合える関係にあるのです。
どのような教科でも、内容が細分化されていても、
「学びのつながり」を追求していくことが最も大切です。
その手助けに国語の学習が役に多少立つのかなとは思います。
話はだいぶそれてしまったのですが、
小学生でも最近は古典(古文、漢文)に触れるようになってきました。
もちろん、中学生や高校生が学ぶような本格的な学習ではありません。
しかし、古典を読んで、いにしえの教えに触れ、人間社会の本質を知るという学びはもうすでにスタートしているのです。古典不要論はしばしば聞かれますが、人間社会を知る、人間とはを知る上でこんなにもおもしろい題材はありません。そう考えると、国語のベーシックとは言っても、きちんと教えるべきものなのだな。韻文も同様です。直接は「役には立たない」「金にはならない」といっても、社会の大局をつかめる人間になってもらうためには十分学ぶ価値があります。そういうことも踏まえた上での国語専科教室でなければならないのではないかと感じたところです。